半左衛門ブランドとは、御殿場地域にゆかりのある伊奈半左衛門をモチーフにした弊社オリジナルブランドです。

富士山が未曾有の大噴火を起こした宝永の時代。

御殿場をはじめとする麓の村々は深く降灰にうもれ、取り残された民の飢えや苦しみは、大変なものでした。
そんな時、復興に尽力したのが時の代官 伊奈半左衛門忠順。村々のために東奔西走し、自らを犠牲にして正義を通したサムライの中のサムライとも言える人物で、命がけで米蔵を開き、領民を救ったという言い伝えが各地に残っています。

今も伊奈神社に祭られているローカルヒーローの信念をもっと多くの方々に知って欲しい。
半左衛門に、もう一度チカラをかして欲しい。
こんな時代だからこそ、先が見えない今だからこそ、みんなでひとつになって御殿場や小山を盛り上げたい。

半左衛門ブランドはそんな思いから誕生しました。

 

 

伊奈半左衛門と宝永噴火

伊奈半左衛門(伊奈忠順)

江戸時代中期の関東郡代。伊奈家の7代目。
通称:半左衛門。
伊奈氏の代々の仕事を引継ぎ、幕府代官として架橋工事、治水工事を行った。

参考資料:伊奈忠順(Wikipedia)

宝永の大噴火

宝永4年(1707年)11月に発生した富士山の噴火は実に620年ぶりの空前の大噴火で、現在も富士山の東南斜面に巨大な噴火口を残し、盛り上がった部分は宝永山と呼ばれる。約半月にも及んだ噴火により、小田原藩の全領約10万石のうち、6割が大量の火山灰に埋まり、遠く江戸でも2寸積もったという記録が残る大被害となる。

忠順はこの噴火に対し、砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行と呼ばれる災害対策の最高責任者に任じられ、主に川底に火山灰が堆積していた酒匂川の砂除け、堤防修復などに従事した。しかし、もっとも被害の酷かった駿東郡足柄・御厨地方へ幕府の支援が一切行われず、59もの村が「亡所」とされ、放棄され飢餓に苦しむ者が続出している悲惨な状況となっていた。忠順は酒匂川の改修工事に被害農民を雇い入れることで生活の安定を図り、農地を回復させるための土壌改良にも取り組んだ[3]。忠順は復興開始から4年後、事業半ばで死去。墓所は源長寺(現在の川口市)。戒名は嶺頂院殿松誉泰運哲翁大居士。

忠順の救済により救われた農民たちは、その遺徳を偲び慶応3年(1867年)に祠を建て、その後、須走村(現在の静岡県駿東郡小山町須走)に伊奈神社を建立し忠順の菩提を弔った。伊奈神社には忠順の像も立つ。大正時代になって忠順の業績を称えて従五位下に叙せられている。

なお、記録はないが[3][4]、「忠順は見て見ぬふりができず、独断で駿府紺屋町の幕府の米倉を開き、1万3000石を村々の飢民へ分配した。結果的に目付によってこの無断行為を咎められ、忠順は罷免。後に切腹を命じられ、享年40」とする伝承が駿州御厨地方に残されている。

1707年(宝永4年)11月23日、富士山の東口中腹より噴煙が上がり、噴火が起こりました。この噴煙は、2週間の間、御厨地方(現在の御殿場市、小山町)を始め神奈川県、東京の一部にまで降灰をもたらした。場所によっては、3mを越す灰が積もりました。噴火の始まる1か月前には日本最大級の地震(推定マグニチュード8.6)ともいわれる宝永自身が起こっています。

現在の御殿場市、小山町を含む地域は、当時小田原藩の領地であり、小田原藩は被害の状況から早期に復興を諦め、この地域を幕府に返上してしまいます。幕府は降灰処理作業や河川事業のために各藩から高役金(義捐金)を徴収をしますが、実際に復興に使用された金額は1/8〜1/10ほどしかなかったようです。

幕府による河川の復旧工事も十分ではなく、何度工事をやっても満足のいく復興は得られませんでした。また、幕府の役人達も農民達に他の土地に移るよう勧める有様で、御厨地方は見捨てられた土地(亡所)となっていました。思うように復興が進まず月日が流れ、食料も満足にない中、飢餓に苦しむ人が続出するなど凄惨を極めました。

そのような中、幕府より砂除川浚(すなよけかわざらい)奉行として復旧作業の責任者に任命されたのが伊奈半左衛門忠順です。忠順は、扶持米の支給、年貢の免除に加え、酒匂川の復旧工事に被災した人たちを採用し賃金を優遇するなどしました。

一方、幕府はといえば、勘定奉行荻原重秀が復旧工事費用を出し渋り忠順を苦しめます。また、朝使聘礼の接待役に任命された忠順は幕府が多額の金を使用することを見て幕府のやり方に不満を持ちます。忠順は、住民のために何とかしたい想いで行動を起こしました。幕府に内緒で、幕府の貯蔵米である駿府の米蔵を独断で開け、飢餓に苦しむ人たちに分け与えます。

やがて、この件が幕府に知れ、役を解任されると自ら責任を取って切腹したと言い伝えられています。

復興の道はその後長きにわたって続きますが、御厨地方ではこの恩義を代々伝え、忠順は“御厨の父”として当地で不忘の人となりました。そして慶応3年(1867)有志により小祠を建立、明治11年(1878)吉久保水神社と須走立山中腹上真地に小祠を建立、明治40年(1907)須走字西ノ沢王子ケ池に伊奈神社を建立しました。更に昭和32年10月7日に小山町須走字下原に移され現在に至っています。

参考資料:富士山宝永噴火絵図(歴史文化情報センター)

参考資料:江戸の復興台貫 奇跡の4年~巨大地震・富士山噴火からの再生~(歴史秘話ヒステリア)

 

 

怒る富士

伊奈半左衛門を主人公に、富士山の宝永大噴火を描いた作品が出されています。

小説

怒る富士(上・下)

著者:新田次郎

宝永4年に起こった富士山の大噴火により、農民を救った代官、伊奈半左衛門忠順を取り上げた長篇時代小説。

 

演劇

参考資料:怒る富士(前進座)

怒る富士 (前進座)

原作:新田次郎
脚色:田島栄
演出:十島英明

 

伊奈半左衛門の功績は、こんなところにも波及しています

怒る富士(高根中学校)

毎年、文化祭にて、御殿場市立高根中学校の1・2年生が「怒る富士」を上映しています。

 

当社の商品がこんなところにも!!

前進座HPより
一般社団法人御殿場青年会議所HPより

 

プロレスリングHEAT-UP↑より

 

新聞記事にも取り上げていただきました

 

X